一方、外国との交渉という視点からみると、アユタヤーは西にビルマ、東にアンコール帝国に接してあり、南にはマレー世界が広がっていた。すでに述べたように、アユタヤーの本質は交易ネットワークに支えられた巨大なムアン群の長であり、最大の市場であるから、町には交易を目的とした商人が様々な地方から集まり暮らしていた。そこには当然それまでのタイ族がもっていなかった食材があり、調理法があり、食習慣が存在していたのである。アユタヤーは当時の食文化にとって、ちょっとした展示場であり、交流の舞台だったといっていい。17世紀のアユタヤーに派遣されたフランス人使節シモン・ド・ラ・ルベールの記録によれば、当時のアユタヤーには40余もの民族が住んでいたという。中国人やペグーから来たモーン族、ヴェトナム人、カンボジア人、オランダ人、ポルトガル人、マカッサル族、日本人などは、それぞれ自治性の強い町を作ってシャム王から官位を受けた頭領のもとに交易に従事していた。そこには当然ながら市場も発生したであろうし、内部ではそれぞれの民族の持つ料理が食べられていたことであろう。